オーナーの  ひとりごと


中学校と高校時代をすぐ近くで過ごした私は、当時から相馬邸に対し、憧れと初代相馬哲平に畏敬の念を以て過ごしてまいりました。 黒々と松の大木に覆われた、お屋敷の前を通るたびに初代哲平の生き様にさまざまな思いをはせて過ごしたように思えます。

初代相馬哲平は安政六年徳川幕府の鎖国が終わり横浜、長崎とともに米英仏露欄の5ヶ国に対し通商貿易が許され国際都市としての活気に溢れた函館に、文久元年、哲平28歳のときに一旗揚げようと多くの野心に満ちた人々の一人として津軽海峡を渡りました。 身を粉にして働き足掛け3年、勤めてた岩船屋の給料と夜分行商して儲けた金を残らず貯めた資金で米穀商を始めたのです。 身を粉にして働いた当時の逸話に、哲平は電車の後を走って、乗ったつもりで電車賃を貯金したというのがあります。

明治2年函館戦争がはじまり、住民は先を争って避難した中で哲平は戦の巷に踏み止まり、全財産を投じて米を買い集めました。 食料の欠乏してた明治政府軍、榎本軍の両軍から脅迫されたのにも屈せず、戦が終わって米穀がすべて高値で売れ、巨利を得たのです。 この資金を元手に以降は漁業の仕込み、海産物の売買、土地への投資、不動産抵当金融などを主業に日夜奮闘し、函館はおろか北海道屈指の大富豪になりました。 特に漁業仕込は、北見、根室、国後、歯舞、択捉、樺太、露領方面まで拡大し、市内の土地はもとろん東北、道内の農地山林などにも投資をして、傍ら漁業、鉱業を営み、船舶に融資するなど各方面に事業を拡大した。 明治28年に第百十三国立銀行取締役、その後の株式会社百十三銀行の取締役も務め、晩年に「相馬銀行」と呼ばれた函館貯蓄銀行の経営に携わりました。

相馬哲平は「郷土報恩」をモットーに晩年、函館区役所への土地、函館慈恵院はの基金、函館公会堂建設資金、函館図書館現書庫の建設資金など数々の寄付が行われ、昭和19年に三代目哲平による(相馬報恩会)の設立に受け継がれ多額の寄付のもとに各種公益事業への援助が現在も行われてます。

              神仏を崇敬すること。
             勤倹を守り贅沢をせぬこと。
             稼業を大切にすること。
             借金をせぬこと。
             投機に手を出さぬこと。
             政治に関係せぬこと。

      これは、相馬家の家訓と言われています。

私が独立の道を歩み始めて40年が経過しました。 私の生き様は、相馬哲平の生きざまに似ているところがちょっぴりですがある様な気がします。と言ったらおこがましいとお叱りを受けますが、相馬哲平の家訓に少しは相通じるものがあるような気がしています。

相馬哲平の生き方の思想は今の人たちにほとんど理解できないかもしれません。 しかし、私のように戦後の混とんとした時代を経験した人たちにとっては忘れることの出来ない大切な言葉ばかりです。 今の若い人たちが、この哲平の言葉を理解して世にチャレンジすることを希望します。

            ご意見・ご感想をお寄せ下さい。
            Eメールアドレス  soumatei@mse.ncv.ne.jp